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憲法ネット103メンバーからの一言のコーナーです。時々の問題について、自由な発言やつぶやきを掲載していきます。どうぞご注目ください。

(絵・文)野村まり子(監修)笹沼弘志

『えほん日本国憲法』明石書店・2008年

 □北川善英「日本を君主制国家に変質させる安倍政権?」(2018.2.27投稿)
 

 政府方針-天皇退位・新天皇即位に伴う「9儀式を国事行為に」。
 恐らく、天皇の国事行為を限定列挙した憲法7条の10号「儀式を行うこと」の具体的内容として正当化するのであろう。
 しかし、新天皇即位に伴う儀式のうち、「剣璽等承継の儀(神器などの引き継ぎ-皇祖皇宗からの万世一系)」は神話の世界を法の世界に引き込むものであり、「即位後朝見の儀(立法・行政・司法の三権の長などにおことばを述べる)」も、秋篠宮立皇嗣礼のうちの「朝見の儀(新皇嗣が新天皇・皇后にあいさつをする)」も、同様に国民主権・象徴天皇制に反するのではないか。
 「朝見の儀」とは、「臣下〈君主に仕える家来〉が参内〈天皇・国王の住む御殿に参上すること〉して、天子〈天命を受けて地上を治める者〉に拝謁〈身分の高い人に会うことをへりくだっていう語〉すること」(すべて『大辞林』による)だから。  うがったみかたをすれば、天皇退位をめぐる安倍政権(とその背後の神社本庁・日本会議など)の対応は、折に触れては日本国憲法の基本三原則に対するリスペクトを表明し、日本国憲法の象徴規定に自己限定しつつも、平和主義を慰霊と悔恨(すべての戦争被害者に対する!)という感情・倫理レベルで支え続けてきたとも言える現天皇・皇后に対する嫌がらせか、いじわるのようにも見える。

 □北川善英 今朝の朝日新聞の木村草太氏の論説「9条の持論 披露する前に」(2018.2.27投稿)

 

 国民の議論すべき対立軸を“「専守防のための〈自衛隊〉」か「限定的な〈集団的自衛権〉の容認」か”に設定すべきだと主張しているが、その根拠と意味が不明―善意で解釈すれば、憲法改正国民投票を想定した、発議案反対運動での戦術論レベルの議論か? そうだとしても、専守防衛の自衛隊と集団的自衛権を対置させることの意味は?“自衛隊:違憲判断=即時解体”とは井上達夫の受け売り。国民の議論すべき対立軸を“「専守防衛のための〈自衛隊〉」か「限定的な〈集団的自衛権〉の容認」か”に設定することの根拠と意味が不明(善意で解釈すれば、憲法改正国民投票を想定した反対運動での戦術論レベルの議論か?)。また、憲法13条(⇒「外国による侵略からの国民の生命・自由の保護」)が、なぜ軍事組織による武力行使に直結するかの説明もない。木村氏にしては珍しく非論理的でなまくらな文章。  

 □稲正樹「安倍9条加憲論に対する憲法研究者のスタンスのあり方―木村草太氏「9条の持論、披瀝する前に」朝日新聞2018年2月22日(あすを探る・憲法・社会欄)を題材にして」(2018.3.1投稿)

 

 問題点1 政府の憲法解釈を欺瞞だという見解を批判している点→憲法13条を武力による自衛の根拠としているのは、大問題である。

 

 木村見解:まず、政府解釈を確認しよう。確かに、憲法9条の文言は、「国際関係における武力行使を一切禁じている」ように見える。しかし、他方で、憲法13条は、国民の生命や自由を国政の上で最大限尊重しなければならない旨を定める。政府は、強盗やテロリトのみならず、外国の侵略からも国民の生命等を保護する義務を負う。この義務は、国家の第一の存在意義とでもいうべきもので、政府はこれを放棄できない。そこで政府は、外国からの武力攻撃があった場合に、防衛のための必要最小限度の実力行使は「9条の下で認められる例外的な武力行使」だとしてきた。
 こうした政府解釈を「欺瞞(ぎまん)」と批判する見解もある。しかし、その見解は、「外国による侵略で国民の生命・自由が奪われるのを放置することも、憲法13条に反しない」との前提に立つことになる。こちらの方がよほど無理筋だ。

 

  木村説のオリジンは、以下の田上説であろう。

 「わが憲法の基本原理として国民主権・人権尊重および国際協調の三原則が挙げられる。このうち、侵略に対して抵抗しないことが国際協調の原理に適するとはいえない。国民主権の国家ならば、国民は憲法を尊重擁護する義務とともに、憲法の前提とする国家の存立・防衛について責任がないとはいえない。殊に国家が国民の生命・身体および財産の安全を保障するために必要な制度であるとすれば、それは急迫不正の侵略に対し自己を防衛する権利がなければならない。憲法13条は、立法その他の国政のうえで国民の基本権を最大限度に尊重すべきものと定めるが、それは原則として国民の自由を侵してはならないとする消極的な不作為請求権の宣言のほか、国民の生命・自由・財産に加えられる国内的および国際的な侵害を排除するため積極的に国権の発動を要請する、公共の福祉の原理を含むものである。ここに、国内の公共の安全と秩序を維持する警察権とともに、国外からの侵略に対する国の自衛権の憲法上の根拠がある。憲法第9条の戦争の放棄はこのような前提の下で理解すべきである」(「主権の概念と防衛の問題」宮沢還暦『日本国憲法体系・第2巻総論』有斐閣、1965年、98頁。

 

 このような議論をするのではなく、
 1.憲法13条の本質論を明確にしていく作業の必要性:13条は武力による国家の自衛論の根拠とはなり得ないものである。

 13条後段の、生命権を自由権や幸福追求権とは総体的に区別された人権として把握すべきであるという見解もある。その権利内容を、生命についての侵害排除権(国家に対する不作為請求権)と生命についての保護請求権(国家に対する作為請求権)に分け、前者をさらに、①戦争や軍隊のために自己の生命を奪われたり、生命の危険に曝されたりすることのない権利(平和的生存権)、②国家の刑罰権などによって自己の生命を剥奪されない権利、③生命の維持についての自己決定権、後者をさらに、④最低限度の生存を国家に要求する権利(狭義の生存権)と、⑤生命の侵害(の危険)からの保護を国家に要求する権利に分けることができるという見解である[1]。
 人格権論に代えて、生命権論もしくは平和的生存権論として、立論していくことも可能ではないか。その場合、国家の戦争行為や軍事力に対する個人の生命その他の人権の優位性の思想をその核心として強調していくことが大切である。
 なお、根森健説によれば、「生命権」が保障するものが本来国家による値切りを一切許さない程に重要な、個人の生存・生活の根本基盤である点を重視すれば、従来13条前段の「個人の尊重(個人の尊厳)」原則と理解されてきた条文の中に、「個人の尊厳権」という人権を認め、そこに生命権を位置づけることも考えても良いのではないか。あるいは、憲法13条前段と結びついた13条後段の「生命」規定が保障する人権として構成することも考えられるのではないか[2]。

 2.「核心的な行為形態がほかならぬ武力行使である『自衛権』によって国家を防衛しようとする考え方」と「もっぱら非軍事的な形態によって国民の生命や安全を擁護しようとする考え方」の相違を明確に主張することが大切ではないか:自衛権論の再検討の必要性。
 その場合、後者の立場にこれまでの憲法学説は立っていると思うが、自衛権否認論なのか武力によらざる自衛権論なのか、後者の場合には「自衛権」の核心部分は放棄不可能、ただし「戦争予防型自衛権」「平和的安全保障権」として再構成すべきなのか、詰めて考えておく必要がある。

 

 問題点2 自衛隊違憲論は自衛隊の即時解体になるはずなのにそれを主張しないのは欺瞞だと述べている。自衛隊違憲論に立つ憲法学説が、憲法9条に適合的な安全保障政策と自衛隊の解編のための努力をしてきたことをことさら無視している。井上達夫氏の議論と同じ。知っていて無視しているのか、あるいはことさら自衛隊違憲論を貶めるために言っているのか。

 

 木村見解:さらに、仮に自衛隊が本当に違憲だとすれば、今すぐに自衛隊を解体しなければならないはずだが、自衛隊の即時解体までは主張しない。それこそが欺瞞でなくて、何であろうか。
 
 問題点3 何を選択すべきかの問題の立て方がそもそも間違っている。

 

 木村見解:いま憲法をめぐって国民が議論すべきは、従来の政府が言う「専守防衛のための自衛隊」とすべきか、2015年の安保法制で拡大された「存立危機事態での限定的な集団的自衛権」を容認するかであろう。

 

 まとめ

 ・<安倍9条改憲の本質は、「武力によらない平和」という憲法9条と平和的生存権の根本規範を変質させるものである>。この論点を説得力をもって語ることに、今の憲法状況の下における憲法研究者の存在意義があると考える。木村草太氏の議論を挙手傍観していてはいけない。3.25の自民党大会での自民改憲草案に対する批判の仕方とも関連して。

 ・「専守防衛のための自衛隊」という俗論を打ち破る課題がある。安倍9条改憲は、「国民に愛されている自衛隊」(災害救助活動などが自衛隊の主たる任務であるというイメージをもとにした、9条の制約下で政府が作り出してきた自衛隊像、それを信じようとしてきた国民の側の意識のあり方)を打ち壊すものだということを、どれだけリアリティーを持って語れるか。

 [1] 山内敏弘「基本的人権としての生命権」『人権・主権・平和―生命権からの憲法的省察』日本評論社、2003年所収。
 [2] 杉原泰雄(編)『新版・体系憲法事典』青林書院、2008年、435-436頁。

   □清水雅彦(日本体育大学教授)「山尾志桜里氏の『立憲的改憲論』の検討」(2018.3.2投稿)

 

 先の衆議院選挙で無所属当選後、立憲民主党の憲法調査会事務局次長及び衆議院憲法審査会立憲民主会派の委員になり、その後、立憲民主党に入党した山尾志桜里氏。当選後、積極的に「立憲的改憲論」なる憲法論を展開しています。

 『神奈川新聞』2017年11月9日「時代の正体〈551〉 改憲論議に先手打つ 山尾志桜里氏が語る(下)」
http://www.kanaloco.jp/article/289883
 『日経オンライン』2017年11月22日「山尾志桜里議員『自衛権に歯止めかける改憲を』 立憲的手法で“透明人間”を縛る」http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/16/071000146/112100013/ 

 これを読んでいただければわかる通り、改憲をして自衛隊の存在を明記することを前提に議論しているのです。2017年12月20日に自民党憲法改正推進本部で了承された「憲法改正に関する論点取りまとめ」では、自衛隊についてのシビリアンコントロール明記論に触れており、山尾氏の議論と重なってきます。
https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/136448_1.pdf
 ちなみに、立憲民主党が2017年12月7日に決定した「憲法に関する当面の考え方」では、「自衛隊加憲論」には反対としていますし、枝野幸男代表は9条改憲論の対案は現行憲法としています。私たち憲法研究者も9条に基づく対案を提示しています。山尾氏の9条論は対案にはなりませんし、改憲派の土俵に乗った大変危険な議論といえます。

 憲法研究者の対案としてこちらを参考にしてください。

 渡辺治・福祉国家構想研究会編『日米安保と戦争法に代わる選択肢 憲法を実現する平和の構想』(大月書店、2016年)http://www.otsukishoten.co.jp/book/b252497.html

   □清水雅彦(日本体育大学教授)「山尾志桜里氏の憲法裁判所論も問題」(2018.3.2投稿)


 山尾志桜里氏は憲法裁判所設置論も唱えています。運動をしている市民の中にもこの議論を展開する人たちがおられますが、失礼ながら、これは法律の素人的な議論だと思います。
 通常裁判所が違憲審査を行う日本のような付随的違憲審査制より、憲法裁判所が違憲審査を行うドイツのような抽象的違憲審査制の方がいいという議論がありますが、前者のアメリカでも違憲判決がよく出ます。それは政権交代があり、裁判官のバランスも比較的取れているからです。憲法上内閣に最高裁裁判官の人事権がある中で、長期自民党政権が続く日本では、どうしても裁判官人事に問題が出てきます。
 このような中で日本が憲法裁判所を設置したらどうなるか。現行制度なら3回裁判ができますが、短期間で一発で憲法裁判所が政府行為や法律の合憲判決を出す可能性があります。読売新聞社や維新の会が憲法裁判所設置論を唱えている意図を、山尾氏がわかっていないのではないでしょうか。山尾氏の議論は対案にもならない大変危険な議論といえます。

    □龍谷大学教授(憲法学)丹羽徹さんに聞く「文科省の教育内容『調査』 まさに『不当な介入』」(しんぶん赤旗2018年3月27日3面の転載)(2018.3.29投稿)

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 文科省が自民党議員の照会に応じて、公立中学校での前川喜平・前事務次官の授業をめぐって教育内容にメールなどで介入した問題について、丹羽徹龍谷大学教授(憲法学)に聞きました。(聞き手・若林明)

 

 文部科学省が出した質問メールによる調査は、明らかに教育内容に対する直接的な介入です。文科省は、「聞いているだけで、介入ではない。やめろと言ったわけではない」と言い訳するかもしれませんが、結果として、「やめろ」という効果を持ちます。それも、政権に近い政治家が文科省に言ってきたことが明らかになっています。政治権力が直接的に教育行政に対し介入をしてきて、行政が今度は権力的に地方教育委員会・学校に対して介入をしていったということです。まさに、「不当な介入」です。

 文科省が体罰問題などで、各県・市町村の教育教員会を通じて調査をすることはあります。文科省は、地方教育委員会に対して一定の行政調査をすることもあります。学力テストなどもそうです。それは、個々の教育活動を取り上げて、問題にするためにやっているわけではありません。教育内容にかかわる調査ではなく、実態把握のために調査です。

 「法令上問題が無い」という人がいますが、「不当な支配」については、1976年の旭川学力テスト事件の最高裁判所の判例が、「大綱的な基準の設定」として国家が教育内容・教育についてかかわっていい範囲の限界をもうけていて、現在でも有効です。国や行政が決めていいのは「大綱的」、つまり大枠だけです。個々の教育活動に口をはさむことはできないのです。これが基本的な枠組みです。最高裁の判例から見ても「問題」があるのです

 戦前の教育で国家が教育内容に介入して全部統制したことへの反省から、戦後、教育基本法で、教育は基本的に現場で自由な活動として行うことができるのです。それを担保するための規定として、国家の介入をいかに除去するかを目的として作られたのが、「不当な支配に服さない」という規定です。政治権力や行政権力からの自由という側面があります。

 教育は、人格の完成という大きな目的をもっていて、人の心の問題まで含めるような営みです。だから、国家や権力が基本的にかかわっていいことと、いけないことを明確に区別する必要があります。

 日本国憲法は26条で「教育を受ける権利」を定めています。その権利を保障するために、国や自治体は、教育内容ではなく、教育条件整備の面で役割を果たさなければなりません。

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